以前「受動意識仮説」「集合無意識」について、色々考察をしてみました。
結果、「快楽とは水で薄めた痛みのようなものである」を検証すべきだと結論が。
今回はそれについてもう少し深ぼってみようかな、と。
どうやら僕は気持ちが落ち着いている時は「ですます調」で書けるらしい…。
目次
どうせ苦しむなら楽しみたい
ネガティブな思考や物理的な痛みや苦しみが大嫌いなんです、僕。
だからこそ「快楽とは水で薄めた痛みのようなものである」は、なかなか受け入れられない。
とはいえ、受動意識仮説と集合無意識を考えすすめると、苦しみから解放されない事は確定的です。
どうせ苦しみを感じるなら、すこしはマシに感じたい。
それに集合無意識が、そこまでイジメっ子だとも思いたくない。
きっと苦しみには「抜け穴」があるはずだと思い、見つけた言葉が…
「快楽とは水で薄めた痛みのようなものである」だったんです。
あらゆる刺激の本質が苦痛
自分で考え込んでもなかなか腑に落ちる回答が見つからないので、いろいろ検索してみました。
するとこんな文章が。
あらゆる刺激の本質が苦痛なのです。
「快楽とは水で薄めた痛みのようなものである」マルキドサド。
凝った肩を揉まれると気持ちがいいけど、セガールに掴まれたら骨ごと千切れて痛いですよね?空腹時の食事は美味しいけど、一定を超えたら拷問です。誰かの嬉しい好意も度が過ぎれば負担です。社会から期待されすぎればゲロを吐き、自慰をし過ぎれば粘膜から血が滲みます。
楽しいこと、嬉しいこと、気持ちの良い事というのは全て苦痛の始まり。
そして、それらとは無関係に独立した純粋な苦痛もある。
人の人生と感覚には、最初から多種多様な苦痛とその強弱しか無いのです。
引用元:ヤフー知恵袋
これのおかげで「快楽とは水で薄めた痛みのようなものである」という言葉そのものの意味は理解できました。
ただ、まだ腑に落ちない‥‥。
この世の刺激は1種類のみ
外から観測できる刺激はすべて苦痛で、強度が高いと「苦しい」強度が低いと「気持ちいい」なんでしょうか。
つまり刺激の種類はこの世には一つしか存在しなくて、あるのは「強度」だけ。
「刺激の発信源」と「強度」を司るのが集合的無意識という事なんですかね…。
何か刺激を得たときそれが気持ちよければ「おお~強度が低い…!」と思えばいいのでしょうか。
苦しかったら「強度高ぇ~~~~」と思えばいい…のか?
「この世に生まれたのは暇をつぶすため。暇にならないためには刺激をうけるのが一番」
昔どこかのオカルトブログでこんな一説をみた事ありますが、あながち間違ってないのかも。